投稿日時: 2017/12/20
気仙沼小学校HP管理者
本校第2代校長(明治11.12~明治12.7)竹田元吉先生の玄孫になる上野俊彦様がはるばる神戸から来校されました。竹田家の家系についてまとめた「竹田家の家譜」と,竹田元吉先生(漢学者として東溟と号していたそうです。)の遺稿をまとめた「東溟遺稿」の冊子を持参され,詳しく見せていただきました。
竹田元吉先生は,竹田俊英といい,名は元吉。東溟(とうめい)と号していたそうです。伊達藩の医師であった竹田家の家系の中で竹田元吉先生(以後,竹田俊英と表記)は,次男であったためか医師の道には進まず,経史,兵学を学び,漢学者でした。藩校・養賢堂の教授であり,廃藩後は磐井郡方面の学事を講説し,その後,唐桑の紫微浦小学校(唐桑小学校)で3年間教師をしました。その後,鼎浦小学校(気仙沼小学校)第2代校長となります。
竹田俊英先生が明治15年に書かれた「日本新教育論」はその8年後に発令される「教育勅語」そのままであることも大変な驚きでした。
竹田俊英先生が,校長として在職していたのは半年ほどですが,その教えを受け,影響を受けたものは大変大きいものだと改めて感じました。
「藩学以来,教育に従事すること二十有余年。業を受くるもの,気仙沼にもっとも多く,みなその徳に化した。詩文をよくし,大森文豺,大森松陰,岩村静堂らと交流し,明治十九年一月十二日病で没した。」(近代気仙沼庶民誌より)
「竹田元吉之墓」と墓碑のある墓は青龍寺にあり,亀山を正面にして建っているということです。